京都比良山岳会のブログ

山好きの社会人で構成された山岳会です。近郊ハイキングからアルプス縦走までオールラウンドに楽しんでいます。

《山紀行739》 亘理町ボランティアと愛宕山

東日本大震災、それは現代日本人の経験した最大の自然災害であろう。あの悲惨な津波の映像を見て心を痛めない人はいないはずだ。小さな個人にできることは何か、義捐金を供出するもよし、労力を提供するもよし。義捐金だけでは納得できず、被災地支援に3日間宮城県亘理町に行ってきた。

20110606愛宕山3

写真3:ボランティアのテント村(亘理町旧舘)

[個人山行]

《山紀行739》 亘理町ボランティアと愛宕山     平成23年6月4日(土)~7日(火)

48期 山本浩史(単独)

東日本大震災、それは現代日本人の経験した最大の自然災害であろう。あの悲惨な津波の映像を見て心を痛めない人はいないはずだ。小さな個人にできることは何か、義捐金を供出するもよし、労力を提供するもよし。義捐金だけでは納得できず、被災地支援に3日間宮城県亘理町に行ってきた。

【行  程】 6/3大阪23:27-(▲急行きたぐに)-8:29新潟-郡山-19:24△仙台

6/5△仙台7:19-7:56亘理=ボランティア活動=▲亘理公民館P

6/6▲亘理公民館P4:36~4:55愛宕山4:58~5:30亘理要害跡5:39~5:42亘理公民館P=ボランティア活動=▲亘理公民館P

6/7▲亘理公民館P=ボランティア活動=亘理-仙台=(▲夜行バス)=京都

20110606愛宕山地図

【登山データ】 天候 晴れ 歩行3.9㎞ 1時間06分 延登高 169m 延下降 169m 1座登頂

愛宕山というと京都人にとっては故郷の名山、同名の山は全国至る所にある。ここ亘理町にもボランティアセンターからすぐ近くにあるのでボランティア合間に散歩がてら登ってきた。登山口は廃車になったバスが置かれた所にある鳥居を潜り古びた石段を登ると古峯神社の朽ちた社殿に到る。今や誰も参拝する人はいないかのようだ。社殿横をさらに進むとあっと言う間に愛宕山(151m)山頂に達した。山頂には石の祠があるだけで山頂標識はない。嘗ては此処に愛宕神社があったそうだが、今では亘理神社に合祀されなくなってしまったそうだ。

阿武隈山地の北端の枝尾根に張り出したこの山は海からの目印にされていたそうで、信仰に結びついたのが頷ける。山頂からは展望もなく薄暗いので直ぐに下山した。来た道を戻るのは性に合わず北西稜の微かな踏み跡を辿るとスズタケが茂り煩い。おまけに蜘蛛の巣も煩くストックがないのでそこらの枯れ枝を拾い広蜘蛛の巣払いに使った。給水設備なのかコンクリートのタンクが3つ並んだところに飛び出し視界が開けた。亘理要害跡の森や亘理の町域を見渡すことができる。

真っ直ぐテントに戻るには早過ぎる。亘理要害跡を見に行こう。テント村の直ぐ南にある標高20m程の丘が亘理要害の本丸跡で、戦国時代の天正年間に亘理氏が築いたとされる亘理城をルーツとし仙台藩重臣片倉景綱伊達成実と続いた。一国一城制の江戸時代は城は仙台だけでここは“亘理要害”と呼ばれた。神社の奥には戊辰戦争50年の碑が亘理伊達家の当主に依って建立されている。此処は戊辰戦争仙台藩降伏の地であったのだ。早朝散歩を終えてテントに戻ってもまだ早朝だ。

《ボランティア活動》

東日本大震災は3月11日14時46分に発生し、東北3県の太平洋沿岸を過去最大の津波が襲った。高さ10mの防潮堤もいとも簡単に破壊し逃げ遅れた大勢の人々を呑みこんだ。呑みこまれたのは人だけではなく家も車も船もみんな数㎞も内陸へと運ばれてしまった。

3月近く経って被災地を訪れると、物資は行き渡るようになり落ち着いているが、瓦礫の撤去はまだ半分も進んでいない。車や家屋など大きなものは行政の手で重機を投入して行うより手がないが個人宅に入りこんだ泥の掻き出しは人手に寄るより他にない。まだまだボランティアの手を必要としている。ボランティアセンターの運営も秩序立って快く受け入れてもらえた。

ボランティアセンターの隣の公園にボランティア用の駐車場も用意されその周りにテントを設営することができる。もう1ヶ月以上“住” んでいる人もいてボランティア村の様相を呈している。

毎朝8時頃から新規ボランティアと継続の人の受け付けがあり、8時30分頃からマッチングと云って支援要請の案件が1件ずつ発表され、行きたい人が手を挙げ必要人数を集めて送り出すと云う方式、案件の大半は自宅の泥掻きだが、中には避難所への給食配達や、老人施設での支援、流れ着いた写真の復活、整理、持ち主への引き渡し等の業務もある。いずれにしてもボランティアの車は重要で活動機材の運搬や人の運搬に欠かせない。と云うことで車を持ち込んだ人が優先派遣となり我々車のない者は便乗して行くことになる。

活動1日目(6/5)は荒浜地区K氏邸へ行く3台の車に便乗し11人で出向いた。海岸から1㎞余りの阿武隈川河口付近のお宅で1階の天井まで浸水したが、幸いにも海側にある荒浜小学校の校舎やフェンスが漂流物を遮り破壊は免れた。しかし泥は容赦なく入り込み家具や仏壇も泥だらけ。老夫婦は名取市にアパートを借り疎開しておられるが毎日通って後片付けをされている。床下に入りこんだ泥は4~5㎝の厚さに堆積し未だに湿っている。この泥を掻きだすのだが、フローリングの2間は既に床が剥がれていたが、畳の間は床板が根太にご丁寧に釘付けされ此れを剥ぐのに一苦労した。泥掻きは終わり、汚れた食器類の洗浄のお手伝いもして15時30分活動を終えた。

Kさんのお話を伺うとご近所の方々は幸いにも小学校の3階に避難できたので児童も含め犠牲者は出なかったそうだ

活動2日目(6/6)、この日は亘理町南端の浜吉田地区の独居の高齢女性Sさん宅で隣町(柴田町)の魚屋姐さんのライトエースに機材を積み、神戸から来た4人組のワゴン車の2台に9人が乗り込みに行った。常磐線の線路の西50m程の処で、亘理駅以南の常磐線は復旧作業すら行われていない。ここから福島第一原発までは60㎞程度しか離れていないそうだ。この地区は床を少し越えた位の浸水でこのお宅の建物は外観全く無事、赤・黄・緑で診断される建物調査は緑だった。(赤・黄だと屋内に入ることもできない)

活動3日目(6/7)、Sさん宅の丹精をこめて手入れされた自慢の庭に入りこんだ泥の掻き出しは面積が広く昨日、1日で終わらず、魚屋姐さん以下4名で再訪した。午前中で目途が立ったので、午後は泥の洗い流しをして、何んとか人の住んでいる家らしくなった。

Sお婆さんは震災の時仙台にいて直接津波の被害には合わずそのまま5月下旬まで疎開していたそうだ。隣のご主人が語るその日のことは生々しかった。犬が流れて行き、近所のお婆ちゃんが流され助けを求め、流される車の中からも助けを求められたがどうすることもできなかった。と悔しそうに語られるのには涙無しで聞いていられなかった。Sお婆ちゃんは別れ際に、「皆さんは何故こんなに親切にしてくれるの、『ありがとう』だけで本当にいいのですか」と感謝してくれた。「お婆ちゃん、その一言が聴きたいから皆頑張っているんだよ。元気でね。」と、それ以上の満足を胸に活動を終えた。

なるべく被災地で買い物をしてくださいと云うので、食糧は一切現地調達した。帰りには宮城の郷土料理をたらふく食べて地酒も呑んで、余分な土産も買った。一人のできる事は小さいが被災地と繋がることができたことは大きかった。機会があればまた来たい。山よりずっと感動が得られる。今しかない!

20110606愛宕山1

写真:愛宕山亘理町愛宕下より)

20110606愛宕山2

写真:愛宕山頂の祠