京都比良山岳会のブログ

山好きの社会人で構成された山岳会です。近郊ハイキングからアルプス縦走までオールラウンドに楽しんでいます。

〈個人山行〉京都百名山シリーズno.100 笠置山・柳生街道

令和2年1月25日(土)

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京都百名山シリーズは最終回を迎え南山城の笠置山(288m)に登った。笠置山後醍醐天皇が行在所を置いた山で巨石の散在する行場の山である。笠置の南に位置する柳生の里から奈良に抜ける間道のような柳生街道を歩き奈良に到った。折から若草山の山焼きの日で三条通から鑑賞することができた。

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【メンバー】山本浩史L、安宅耗人、加藤一子、岩波宏、土井司、小前竜吾、岩波昌美 計7名

【山域】京都府笠置町奈良県奈良市

【行程】京都7:04-8:24笠置8:36~9:08笠置寺~9:38笠置山9:43~19:59笠置寺~10:24阿対の石仏~11:04天石立神社~11:37阪原峠11:52~12:21南明寺~12:56夜支布山口神社~13:36円成寺~14:42石切峠~14:56地獄谷石窟仏15:06~15:28高円山~15:55大文字火床16:00~17:14なら町~三条通(山焼き鑑賞)~近鉄奈良22:10-22:58京都

【登山データ】晴れ後曇り 歩行28.6㎞ 8時間38分 延登高1,344m 延下降1,310m 2座登頂

関西本線の加茂から先は、ICOCAが使えず、ワンマン列車での精算に手間取った。笠置山(288m)は駅の東側に位置し、駅から一望することができる。車道が山頂部まで上がり参拝者は山門近くに車を止め行くことができる。入山には拝観料300円が必要で開門は9時、山門を入ると直ぐに受付があり9:10に有料エリアに入った。行場巡りは大岩が重なり修験の山であることが知れる。

正月堂の横には本尊の巨大な弥勒摩崖仏があるが光背だけで弥勒の姿は浮かび上がらなかった。笠置寺縁起では、天智天皇の子、大友皇子がこの地に鹿狩りに来た時断崖絶壁で立ち往生してしまい山の神に「もし助けてくれるならこの岩に弥勒の像を刻みましょう」と祈り目印に笠を置き、無事に帰還することができた。誓いを果たそうと後日この地を訪れると天人が現れ忽ち刻んだと云う。笠置の地名は大友皇子が笠を置いたことが由来だそうだ。

此の他にも磨崖仏は点在し、虚空蔵菩薩磨崖仏は線刻がしっかり残っていた。胎内くぐり、ゆるぎ石や平等石、貝吹岩など巨石が点在している。笠置山山頂部は後醍醐天皇の行在所跡とされ登り口には御醍醐天皇御製の石碑が置かれていた。大師堂から階段を下りると行場巡りが一周し受付の小父さんに挨拶して柳生への道に踏み出した。登山道は直ぐに真新しい舗装道路に吸収され“かさぎゴルフ倶楽部”の南端を辿って府県境を越えた。

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県道4号線に合流し、打滝川の右岸の遊歩道に逃れると摩崖仏の“阿対(あたや)の石仏”があり花が供えられていた。柳生下町の集落を進むと西の山麓に十兵衛杉と呼ばれる涸れた大杉が望まれた。柳生但馬守宗矩の子、柳生十兵衛三厳が旅立つときに植えたと伝わる。柳生家老屋敷を遠くに眺めて柳生陣屋跡の丘の処から東へ折れ天石立神社(あまのいわたてじんじゃ)へと向かった。大岩が転がる谷を進むとご神体の前立磐と後立磐が人工物のように並び、奥の方に柳生石舟斎がこの地で修行中に現れた天狗を一刀のもとに切ったと思った瞬間、天狗は消え割れた巨石が現れたと云う。

引き返し国道369号線を横断し疱瘡地蔵に到った。これも摩崖仏で右下には正長元年柳生徳政碑が刻まれ、「正長の土一揆」の際に農民の側が勝ち取った「徳政令」を称えていた。里の中では昼食適地もなく阪原峠(357m)を目指した。一寸した陽だまりがあり皆思うままに寛いだ。地形図には峠のすぐ南に三角点峰があるので昼食は早く済ませて一人で標高差50mを駆け上がった。4等三角点「阪原」(405m)がある筈だが、ピークには小さな石仏があるだけで探し回ったが見つからなかった。

南明寺への指導標に従って阪原町へ下りて行くと山里の集落は耕作放棄地もなく民家からも豊かさが感じられた。南明寺は観光寺院ではなく立入りもできなかった。小さな峠を越えて大柳生町に入って行くと棚田が美しく集落の外れに差し掛かると石室の露出した水木古墳があった。田んぼの中の道を複雑に進むが柳生街道(東海自然歩道)として整備されおり指導標が充実し迷うことはなかった。

集落内の小高い処に夜支布山口神社があり、トイレも設置されていた。「夜支布」と書いて「やぎゅう」と読ませるらしく素盞嗚命(すさのおのみこと)が祀られていた。本殿に向かって右側に大きな摂社立磐神社があり春日大社の第四殿を延享4年(1747)に、ここに移したと云われる。山口神社よりこの摂社の方が古くからあったらしい。山麓を巻くように北上し白砂川を渡ると、橋の欄干に「東海自然歩道」とあり、自然歩道の為に掛けられた橋であるかのようだった。

人里を離れ登山道となり複雑な地形を指導標に従って進むと徐々に標高が上がり、人家が現れると忍辱山(にんにくせん)町に入った。忍辱山円成寺真言宗御室派の古刹で天平勝宝8年(756)聖武上皇孝謙天皇の勅願で、鑑真和上の弟子、唐僧虚滝和尚が開山したと伝わる。国宝大日如来を始め重要文化財が多数あり、短時間で見学するのが惜しく拝観はまたの機会に取っておいた。門前で観光バスから降りた団体があり、拝観するのかと思ったら柳生街道へと歩いて行った。軈て追い付き添乗員(ガイド?)に「奈良まで歩き山焼見物か?」と問うと「そうだ」と云っていた。

山間部の山歩きが続き上誓多林の集落に下りる直前に481mの3等三角点「誓多林(せたりん)」のピークがあり、此れも一人で立ち寄って見た。何もない山頂で三角点だけが静かに佇んでいた。上誓多林集落からは登りで石切峠の手前に達すると“峠の茶屋”があり、「営業しているのかな」とか喋っていたら、中からおじいさんが「やってません」と返って来た。すぐ峠で北に芳山(ほやま)へ行く道があるが時間が押しているので端折って南下し高円山を目指した。地獄谷へ下りる道は通行止めとなりバリケードで封鎖されていた。その脇から稜線道を辿ったが此方も結構荒れていた。

地形図によると地獄谷道に“地獄谷石窟仏”と書かれた処があったが場所が違っているようで稜線道の途中に出てきた。岩の庇の下に線刻された廬舎那仏が十一面観音と薬師如来を従え鎮座していた。鉄の門扉があり上部は有刺鉄線で囲われ、余りの厳重さに興ざめしてしまった。車道に下り立ち高円山へと進んだ。車道の分岐地点に高円宮憲仁親王殿下御手植の樹木が育ち傍らには大伴家持の「高円の 秋野の上の 朝霧に 妻呼ぶ牡鹿 出で立つらむか」の歌碑があった。実物は万葉仮名で書かれていたので現地では解読できなかった。高円山(461m)山頂は何もないが人の手が入った中途半端な広場で真新しい山頂プレートが掲げられていた。展望良く奈良盆地が一望でき生駒山(642m)が横たわっていた。その右肩は六甲山系のようだ。

北西の尾根を辿り2等三角点「白毫寺」(432m)に到ると“有志山の会”と記された「高円山三角点」の標識が掲げられていたが、点名が間違っていた。三角点から西に下ると開けた処に飛び出した。火床があり景色が素晴らしく、生駒山、六甲山、京都の愛宕山を望むことができた。此処は昭和35年に京都の大文字山を模して作られ毎年8月15日に送り火が行われているそうだ。因みに京都は8月16日に行われている。火床の草原に三脚を立てた人達が何人かおり、正面に見える若草山の山焼きの写真を撮ろうと2時間以上前から待ち構えているという。

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大文字の右足の部分の尾根を下り白毫寺町の人里に達した。春日大社に立ち寄って“大どんと”を見たかったが時間が押しているので此方もパスした。若草山山焼きは春日大社の大どんと焼きの火が種火として使われるそうだ。東海自然歩道の標識に従って歩いていると「円成寺→」の標識となり一周回って夜業の里に引き戻されそうになった。奈良教育大学の縁を歩き市街地に入り、猿沢の池から“なら町”に到り、草鍋のお店に入って京都百名山シリーズの打ち上げを行った。19時前に三条通りに行くと花火は終わった後だったが、山を線刻のように火が走り美しかった。奈良の名残が尽きず家に辿り着いたのは日付が変わる寸前だった。

No.3833 愛宕山 歩荷トレーニング

12月21日 晴れ時々曇り

【メンバー】CL鹿嶽眞理子(12㎏)、高橋秀治(15㎏)、NF(15㎏)、TW(15㎏)、YK(15㎏)、小前竜吾(23㎏)、近本かずみ(18㎏)、松本正(20㎏) 計8名 

【行 程】JR保津峡駅8:17~米買道出会9:32~表参道出会10:13~水尾別れ10:25~黒門10:47~11:15愛宕神社下(昼食)12:45~神社参拝・水の奉納13:05~三角点13:30~旧愛宕スキー場入り口13:45~反射板14:20~月輪寺分岐15:02~大杉谷分岐15:12~月輪寺15:53~清滝駐車場前16:53

f:id:hirasankun:20200107115818j:plain大根鍋

【記録と感想】54期 鹿嶽眞理子

JR保津峡前に集合し、荷物の計量をして出発しました。つつじ尾根からの登りはいきなりの急登が結構ハードでしたが、天気も良く風も穏やかで歩きやすくて助かりました。時々休憩を入れつつゆっくりと登ります。木の間から美しい雲海が顔を出し、みんな見とれていました。

米買道との出会いを過ぎると、登りの傾斜は幾分楽になります。表参道に合流すると今度は階段道。水尾別れを過ぎ、黒門を過ぎ、やっと愛宕神社下に到着です。出発から約3時間みんな頑張りました。

ここで鍋宴会です。同じ歩荷するなら美味しいものを担ぎたい。是非鍋をとのリクエストがあったので、我が家特製の大根鍋にしました。

食事の後は神社にお参りし、担ぎ上げた水を神社に奉納して、三角点へ向かいました。そして今回の最終目的地の地蔵山を目指しましたが、時間が押していたので、反射板まで行って引き返すことにしました。

下山は月輪寺コースで。月輪寺には鹿が4頭もいて、お寺の方と一緒にのんびりとくつろいでいました。お寺の方の話では、去年の台風21号の災害で、今も上の山にある大量の倒木がいつ押し寄せてくるかもわからない状態なのだとか。登山道だけは通れるように整備してくださっていますが、いつまで持つかわからないようです。

時刻が気になっていましたが、何とか明るいうちに下山できてほっとしました。バスが来るまで30分ほどで、それなら歩こうということになり、JR嵯峨駅及び丸太町のバス停まで向かいました。

 

【感想】53期 高橋秀治

鹿嶽さんが歩荷例会をあげておられたので、リハビリを兼ね緩めの歩荷にて参加しました。

半年ぶりに肩にくいこむザックの重量に充実感を感じ、足をとられない様にストックでバランスをとりながらツツジ尾根を歩き、後ろから聞こえる笑い声を励みに何とか社務所まで歩ける事が出来ました。

昼食タイムは、まさかの愛宕山の参道での美味しい鍋パーティーでした。

まだまだ本調子ではないですが、ぼちぼちと皆さんの後ろからついて行きたく思います。

鹿嶽リーダーをはじめご一緒して頂いた皆さんありがとうございました。

f:id:hirasankun:20200107115857j:plain愛宕神社

【感想】54期 NF】

怒濤の12連勤、最終日は歓送迎会の幹事…。こんな体調でボッカなんてできるのかな…。

一抹の不安が胸をよぎりましたが、山頂で「かたけさん特製だいこん鍋」という大きなご褒美と、目指す冬山のために、頑張らない訳にはいかない、と、冬山装備とノンアルコールビールをザックに詰めて出発しました。

案の定、みなさまに迷惑をかけるばてぶり…。登り慣れたツツジ尾根が、こんなにも苦しいのか…。ふがいない自分が嫌になりながらも、小前さんの励ましもあり、なんとか山頂までたどりつけました。
ご褒美の鍋はやはり絶品。気温二度の山頂でしたが、あつあつの鳥ダシだいこんとショウガ、みなさまの笑顔にほっこりし、来て良かったとしみじみ感じました。8人分のだいこんとにんじんを千切りしてくださったかたけさんの「プライスレス」のお手間に本当に感謝です。ごちそうさまでした。
しばらく山岳会と離れていましたが、みなさまと登る山はどんな山でも楽しいとつくづく思います。少しずつ山に登りながら体力を回復し、また、いろんな山行にチャレンジしたいです。みなさま、ありがとうございました。

 

【感想】57期 TW

ボッカ例会とは思えないような、快適な山行でした。なじみのある愛宕山とはいえ久々のボッカに体がついていくか不安でしたが、心地よい気候のなかYKさんや近本さんと嵐(※ジャニーズの)の話などをしているうちに、あっという間に愛宕神社に着いたように感じました。楽しいと時間の流れが早いという言葉通りでした。

その後は髙橋理事長からの般若湯や鹿嶽さん特製のおいしい大根鍋。思いもよらぬ豪華な忘年会に身も心も温まりました。

冬山に備えて冬靴で歩きましたが、帰ってみると足にマメが出来ていたり、フトモモが筋肉痛になったりと、準備の必要性を実感でき、これも次の山への収穫となりました。今までボッカは「大量の汗を流し身体をきしませながら歩く」苦行的なイメージを持っていましたが、こんな楽しい山行なら、毎月でもボッカに行きたいと思えます。

企画してくださいました鹿嶽リーダー、ご一緒いただいたみなさま、ありがとうございました。

 

【感想】61期 小前竜吾

歩荷山行は決して楽しいことはなく、少し腰が曲がった状態で視線は足元の土に行きます。そんなイメージしか無いのですが、今回は鹿嶽リーダーの大根鍋がいただけ、大変楽しいものになりました。鍋を言い出したのは私です。せっかく重たいものを運ぶのですから、石とか水ではなく、実のあるものを運びたいと思ったからです。言い出しっぺにも関わらず、仕事の都合で食材の購入が出来ず、すべて鹿嶽リーダーに任せっきりになりました。いつか恩返ししますのでお許しいただきたい。スマホのログを見ると、水平距離は18km、累積標高は1200mとまずまずの負荷になりました。冬季の雪山山行につながる良いトレーニングになりました。鹿嶽リーダー、同行いただいた皆様ありがとうございました。

f:id:hirasankun:20200107115916j:plain愛宕山三角点

 【感想】61期 近本かずみ

やっぱりボッカはきつかった…でも大根鍋は美味しく、山は楽しかった。今回はそんな山行となりました。つつじ尾根からのルートは初体験で、いきなりの急登に体がついて行けず何度も心が折れそうになりましたが、一人ではない事が励みになり何とか乗りきる事ができました。急登以外は好きなタレント話などに花が咲き、ずっと笑っていたように思います(笑)。お昼は鹿嶽さん特製の大根鍋。噂に聞いていた伝説の大根鍋を食べることができ、とても美味しく本当に幸せでした。2019年納めの登山を愛宕山で、厳しくも楽しめた事を嬉しく思いました。鹿嶽さん、8人分の鍋の準備は大変だったと思います。本当にありがとうございました。そして愛宕ボッカ例会を企画して頂きありがとうございました。そして参加のみなさん、楽しい時間をありがとうございました。

 

【感想】62期 松本正

この会を通じてのお山は3回目、高齢のわりには山歴が短い私目には、恐らく皆さんが先輩、京都ならではのお仕事をされている皆さんとの出会い、目から鱗のお話の数々、とっても大変な8人分のお料理をご準備いただいた鹿嶽リーダー、お鍋とってもおいしかったです。たくさんの方と楽しい時間が持てたこと、おかげで20kgのボッカは、苦も無く、、、のはずでしたが、翌々日に身体がずっしり、にしても愛宕山は、京都の様々な歴史と文化が随所に刻まれたお山、時折、しみじみとした気持ちとなりました。

鹿嶽リーダー、ご一緒いただいたみなさま、素敵な時間をありがとうございました。

 

【感想】60期 YK

真夏の愛宕ボッカに連れていただいた時には曲がりなりにも15kg持てたので、冬のボッカではもっと重くするのだ!と狙っていたが、風邪のため15kgギリギリにさせてもらうことにした。その時点で、私の山行目的は大根鍋となった。久しぶりにご一緒できた方ともおしゃべりしながら、調味料だの具だのをわいわい回しながらの鍋大会は楽しく、よい一年の登り納めができた。また大根・人参・生姜の根菜三重奏のおかげか長引く風邪もその日から快方に向かった。前日に2時間かけて大根を刻んでいただいたリーダーに感謝の山行だった。

〈個人山行〉京都百名山シリーズno.98・99 鷲峰山・三上山

令和元年12月21日(土)

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鷲峰山(じゅうぶせん682m)は、宇治茶の産地、相楽郡和束町にある。山域は真言宗醍醐派の金胎寺境内で山号も鷲峰山、役行者の開いた寺で五光の滝への行場がある。三上山(さんじょうざん473m)は、海住山寺の北方にある山で、展望櫓からの展望が良い。今回はこの2山を繋ぐ長距離縦走を行った。

【メンバー】 山本浩史L、加藤一子

【山  域】 京都府和束町・宇治田原町加茂町

【行  程】 京都6:01-7:27加茂7:50=8:10原山8:14~9:39鷲峰山9:44~9:55金胎寺山門~10:05鷲峰山~10:25鷲峰山三角点~10:23平岡分岐~11:13犬打峠~11:44奥岸谷山12:13~12:54白栖三角点~13:23北山13:28~14:05三上山14:13~14:38鳴子川渡渉~14:57海住山寺15:03~15:55加茂16:11-17:12京都

【登山データ】 曇り一時晴れ 歩行22.7㎞ 7時間37分 延登高1,323m 延下降

1,436m 4座登頂 

長距離縦走なので6時の奈良線で出発した。加茂駅で加藤さんと合流し和束町原山へのバスに乗った。全区間京都府下を走るのに何故か奈良交通バスが進出している。原山の集落は船屋坂三角点峰の急な斜面の南側に広がり、鷲峰山の表参詣道とされる東海自然歩道を歩いた。原山地区の茶畑は山の上まで拓かれ、中でも円形茶園は特異な景観で知られている。参詣道は船屋坂三角点峰の中腹を巻いて進むと東に張出した処の東屋の中にお地蔵様が鎮座していた。やはり古来の参詣道であることが窺えた。清水谷川を上る道となり林道に乗り上ると大きな石に「下乗」と刻まれ、金胎寺の寺域に入ったことを知らされた。

山門に到ったが入山料を取られるので門内には入らず折り返すように林道を辿って行くと彌勒殿や多宝塔、行者堂のエリアに達した。多宝塔は永仁6年(1298年)の建立で重要文化財に指定されている。更に登って行くと鷲峰山(682m)山頂で此処にも鎌倉時代重要文化財の宝篋印塔があった。宝篋印塔の案内板を兼ねた山頂標識を前に記念撮影をして北尾根へと下った。道は不明瞭で木立の中を適当に下って行くと林道に飛び出した。電波塔の取付道路が分岐する処から東のピークに這い上がった。

681mのピークには1等三角点「鷲峯山」があり東方向の展望が得られた。此処には六角形のコンクリート柱の“天測点”があった。大文字山で見たのは同じ形で“菱形基線測点”だった。この天測点は用途が少し違い、戦後1等三角点網の東京基点からの捻じれを補正するため全国48箇所の1等三角点の傍に設置された観測台で天文測量が行われた遺物である。

来た道を戻り、林道を歩き鷲峰山の西側を巻いて宇治田原町平岡への道を見送り、和束町と宇治田原町の町堺尾根を辿った。林道と登山道、農道が入り交じり地形図に無い道も沢山あり、ルートファインディングに神経を使うエリアだ。地形図には「∴」の記号が点在している。余り見慣れないがこの地域ならではの茶畑の記号で稜線にまで点在している。斜面に広がる刈り込まれた茶畑の景観は美しく、展望も得られるので気持ちが良い。

4等三角点「三本松」を目指していたが一つ先のピークまで行ってしまい三角点は断念した。犬打峠(368m’)に下り茶畑の農道を登り返した。農道から登山道に分かれ稜線を進んだ。踏み跡を辿り稜線からはみ出した奥岸谷山(522m)に達した。3等三角点「腰越谷」が置かれているが展望は得られなかった。昼食休憩を取っているとやはり12月、体が冷えてきて早々に出発した。

南に続く町界尾根は複雑な地形で地形図を確認しながら進んだ。ルートから外れる中栖三角点へは藪を這い上った。稜線には地図に無い農道があり暫く歩くとまた道が無くなり藪に突っ込だが問題なく4等三角点「白栖」(484m)に到った。谷の源頭を3本巻き込むように半円を描いて北山へと進んだ。一つ手前のピークには「P490」の黄色いプレートが掲げられていたが標高点でもないようだ。南に下り北山(487m)山頂に到ったが樹林帯で展望は得られなかった。

P490の西端に戻り北へと下り縦走路に戻った。左手に登山道が分岐したがコンパスで確認するが少し方向が違うようでそのままメインの道を進んで行くと段々コンパスの矢印が北を示し出しこれはおかしいと引き返し左手の道に進んだ。この後は比較的直線的に南西に進み登り返し峠を越え谷の源頭の右岸の稜線を下り鞍部から三上山への登りが始まるという複雑さ、登り口に「三上山へ」と表示があり始めて丁寧な指導標を見た。

京都百名山に選定された三上山(473m)は、3等三角点「三上山」が設置され、傍らに展望櫓が設置されていた。手摺りが異常に高く展望の邪魔。北東方向には北山と鷲峰山が重なって見え長い尾根を歩いて来た実感が得られた。南に下る道があり下って行くと林道に飛び出す寸前に「冒険の道」なる登山道が稜線に続いていた。地形図には点線道だけが描かれているが、林道がそれだと思い冒険の道はいったいどこに行くのか情報がなくどっちに行ったものかと思案したが、車道を歩くよりは“冒険”してみようと登山道を進むことにした。

分からない道を進む不安を持ちながら何れにしても鳴子川に下るだろうと進んで行くと結果は林道の方が地図に無い道で冒険の道が歩こうとしていた道だった。この林道はグーグル地図には既に描かれていた。鳴子川右岸に達し渡渉して南側の谷間に付けられた道を登って海住山寺へと向かった。稜線に到ると「←海住山寺 神堂寺→」の標識があり左手に進むと少し下って海住山寺(かいじゅうせんじ)の境内に達した。通過だけでも入山料100円が必要とあるが安い。桜の広場から加茂の街が俯瞰出来、関西線のトンネルがある大野山(204m)が木津川沿いに存在感を持っていた。

本道に到ると生憎、工事中で覆いが被さっていた。五重塔は建保2年(1214)の建立で国宝に指定されている。本堂の十一面観音立像は重要文化財で拝観するには追加で300円必要、工事中の本堂、しかも登山靴を脱ぐのが面倒でパスした。離れた処にある山門は歩いてこそ通ることができる。後は車道歩き3.5㎞で加茂駅を目指した。のどかな茶畑の縦走を終え加茂駅到着、駅前のローソンで缶ビールを買ってホームの待合室で乾杯して帰路に着いた。 

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写真1: 鷲峰山金胎寺の多宝塔(重要文化財

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写真2: 鷲峰山(682m)山頂にて

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写真3: 奥岸谷山(522m)、鷲峰山(682m) 白栖三角点北稜線より

〈個人山行〉京都百名山シリーズno.97 喜撰山

令和元年12月14日(土)

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喜撰山(416m)は、宇治市池尾にある山で平安時代六歌仙喜撰法師がこの地に隠棲したことに因む。また「喜撰」とは宇治茶の銘柄でその上級品を「上喜撰」と称したことから幕末ペリーが4隻の黒船で来航した際、「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たつた四杯で 夜も寝られず」と読まれた狂歌は幕末の混乱の始まりを上手く風刺して面白い。

【メンバー】 山本浩史L、安宅耗人、中尾諭、高橋秀治、土井司、松本正

【山  域】 京都府宇治市

【行  程】 京都8:32-8:52宇治9:02~9:18宇治神社~9:22宇治上神社~9:48仏徳山~9:56朝日山~10:29神女神社~11:43小ピーク12:05~12:45喜撰洞~12:53喜撰山13:00~14:03槇尾山~14:58天ヶ瀬ダム15:04~15:50宇治15:55-16:12京都

【登山データ】 晴れ 歩行18.2㎞ 6時間48分 延登高1,057m 延下降1,057m 4座登頂

宇治は世界遺産になった平等院宇治上神社の観光と宇治茶が観光地としてクオリティーを上げ沢山の外国人観光客を集めている。然も今日はJR東海のさわやかウォーキングのイベントが行われ日本人ハイカーも多く訪れていた。イベントのコースは宇治川左岸から天ヶ瀬ダム方面を往復するようで宇治橋までは彼らのルートと被った。宇治茶のお店が並ぶ通りは電柱が地中化され観光地としての雰囲気を醸し出していた。宇治橋を渡り右岸の道を歩いていると12月中旬だというのに今が盛りの紅葉が楽しめ宇治神社に達した。

宇治神社のすぐ北にある宇治上神社世界遺産に認定され多くの参拝者が訪れていた。本殿は国宝で神社建築としては最古の流造の様式で覆屋の中に菟道稚郎子命(いじのわきいらつこのみこと)、応神天皇仁徳天皇を祀る内殿3棟がある。境内には宇治七名水のうち唯一現存する「桐原水」があり建屋に覆われていた。神社の横手から“さわらびの道”に出てすぐ大吉山展望台への道が分岐した。何度も折り返す車道のような道で展望台に達すると平等院が眼下真正面に見え素晴らしい。

もう少し進むと仏徳山(132m)山頂に達したが、此処からは展望は得られない。小さな山頂標識が掲げられ「大吉山」と括弧書きが付されていた。仏徳山はこの真下にある光正寺の山号が山名として一般化したのだろうか? 3等三角点「旭山」が山頂標識の前に積まれた小石の山の前に置かれていた。一体何の小石なのだろう? 少し下って「朝日山観音→」の標識に従って進むと山頂に向かう道が分岐した。山頂域に達すると赤い屋根の観音堂があり信仰登山の地元の人々が訪れていた。山頂は10m程先で朝日山(124m)の小さな山頂標識が掲げられ、菟道雅郎皇子之墓があった。宇治上神社の祭神の“菟道稚郎子命”のと一致するが、日本書紀によると応神天皇により皇太子に立てられたが異母兄の仁徳天皇皇位を譲るために自殺したとされる。これで宇治上神社の3神の関係が紐解けた。因みに宮内庁の管理する墓が三室戸駅近くにある。

東海自然歩道を歩き志津川集落に下りた。志津川を渡り東の尾根の麓に到ると神女神社がありその裏から微かな踏み跡が続いていた。徐々にしっかりした道になりP290に達すると送電鉄塔が近くにあり現在位置を確認できた。この先の稜線は送電線と絡むように北北東に進むことになった。次のピークでは別系統の送電鉄塔があり眼下には採石場が広がっていた。志津川を挟んだ北側には、五雲峰(343m)と日清都CCのコースが望め、志津川上流を見ると陶芸の里炭山集落が谷合に隠れ家のように一塊に集落を形成していた。その上方には日野岳(373m)や比叡山(848m)も望めた。

稜線の縁に出るとギリギリまで削り取られた山肌が無残にも土を曝け出していた。時間が押して来たので喜撰山での昼食を諦め、送電線を3回潜ったピークで取ることにしたが、知らぬ間に4回潜ってルートを外れ東側のピークに飛び出していた。展望のないピークで休憩し昼食後は送電巡視路を辿り喜撰山ダム湖からの道に下りることにした。山麓送電鉄塔を目指して南東に尾根を下ると送電鉄塔の周辺が伐採され喜撰山の展望が得られた。車道に飛び出す処は不明瞭で道路から取付くのは難しいだろう。車道を歩き峠まで進むと東側は喜撰山ダム湖でダム本体まで望めた。

喜撰山ダムは、寒谷川に設けられた揚水発電用のダムで、下池である天ヶ瀬ダム湖(鳳凰湖)との間で水を往来させて発電しているのでダムから直接流れ落ちる水はない。ダム本体は公開されていないので取付道路もフェンスで立ち入りが規制されている。フェンスの横から喜撰山登山道が始まり、暫く上ると直登路から喜撰洞への巻道が分岐した。巻道を進み西側の谷間に出ると岩の隙間の奥に円満そうな姿の喜撰法師像が安置されていた。喜撰法師平安時代六歌仙の一人に数えられる人で宇治山に隠棲したと伝わる。また「喜撰」とは宇治茶の銘柄でその上級品を「上喜撰」と称したことから幕末ペリーが4隻の黒船で来航した際、「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たつた四杯で 夜も寝られず」と読まれた狂歌は幕末の混乱の始まりを上手く風刺して面白い。

西尾根に廻り込み喜撰山(416m)山頂に到ると3等三角点「喜撰山」があり倒れた木に黄色い山頂標識が括り付けられていた。暫し休憩して南東に下った。やがて林道に出ると比較的整備された車道だがビニールのゴミが散乱していた。西側の下の方には宇治市の粗大ごみ処分地がある。地形図から採石場かと思われたが、人里離れた山中に埋めているのだろうか? 登山道のゴミは風で舞い上がったものが散乱したのではなかろうか? 赤松林の林道は気持ちよいがゴミが気になってしようがなかった。

長い林道歩きの末、天ヶ瀬森林公園の案内板のある所に達した。工事用のコーンが置かれ穏やかではないが気にせず入って行った。軈て“眺望の道”と“ツバキの道”が分岐し、“眺望の道”を行くと槇尾山(330m)山頂に到った。展望台が設えてあるが展望は朝日山方向だけに限られていた。水分が多くなってきたのか霞んで見通しが悪い。“落ち葉の道”から野鳥観察小屋に到ると千両なのか万両なのか真っ赤な実を付けた木と稍オレンジ掛った実を付けた木が並んでいた。馬ノ背展望台は、周りの木が育ち過ぎて最早展望は失われ只のお立ち台となっていた。“憩いの広場”に達すると森林公園の入口で昭和63年荒巻知事揮毫による「共遊槇尾山 想緑豊国土」の石碑があった。

ここで地図を確認すればよかったのだが明瞭な道の方に何の疑いもなく進んで行くとどんどん山中に入って行き大きな山の壁に到り、「?」となり全く逆方向に進んだことに気が付いた。虚しく引き返し「ダム近道→」の標識を見つけ階段を下り天ヶ瀬ダムに下り立った。しかし紅葉の道を歩き、展望台から天ヶ瀬ダムを望めたのは間違ったからこその怪我の功名でまあよしとしておこう。天ヶ瀬ダムは昭和39年に完成したダムで大正13年に建設された志津川ダムを飲み込んでしまった。この地には嘗て“おとぎ電車”なる列車とプロペラ船が観光に寄与していたが昭和35年5月までに廃止になりダム湖に沈んでしまった。

川沿いの道が災害で通行できず、歩道のない府道3号線を歩き宇治市街に戻った。平等院前に来ると冬の夕日を浴びた仏徳山が美しく、心配されたさわやかウォーキング一行とバッティングすることもなく宇治駅に戻ることができた。京都行の快速が5分後の絶妙な時間にあった。京都駅前で反省会を行い18時過ぎに解散した。

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写真1: 喜撰山山頂にて

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写真2: 天ヶ瀬ダム槇尾山(330m)

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写真3: 中ノ島と仏徳山(132m) 平等院裏より

〈個人山行〉京都百名山シリーズno.92~96 音羽山・牛尾山・高塚山・千頭岳・醍醐山

令和元年11月23日(土) 

f:id:hirasankun:20191127113845j:plain音羽山(593m)は、山科と大津の間にある展望の山。牛尾山(546m)は、牛尾観音の背後にある地味な山。高塚山(485m)は、山頂標識もなくひっそりとした山、千頭岳(600m)は、京都滋賀の府県境にある双耳峰で西峰は京都市域となる。醍醐山(454m)は、醍醐寺の山で山頂域は上醍醐と呼ばれ開山堂や准胝堂がある。今回はこの5座を巡った。

【メンバー】 山本浩史L、加藤一子、近本かずみ

【山  域】 京都市山科区伏見区滋賀県大津市

【行  程】 山科駅8:03~8:46音羽川登山口~10:02音羽山10:25~10:50牛尾山~11:24千頭東峰11:55~12:09千頭岳西峰12:13~13:09高塚山13:22~13:55醍醐山14:00~15:00醍醐寺南門~15:14醍醐駅15:19-15:37京都

【登山データ】 晴れ 歩行17.8㎞ 7時間11分 延登高1,122m 延下降1,161m 6座登頂 

JR山科駅を出発地として街中歩きで名神高速道路の高架を潜り山科区小山で山科音羽川沿いの道となった。徐々に谷間が狭まり住宅地が途切れるころ白石神社の石段を左に見るとコットンコットンという音が聞こえてきた。“露山水車”と呼ばれるもので平成29年に造られた小屋があり杵臼の音を響かせていた。完全に人家が途切れ谷が狭まった処に鎌研ぎ橋登山口があり、獣除けフェンスに入口があり音羽山山頂への案内と共に犬の捜索願が掲げられていた。

登山道に入り山科音羽川沿いの道を進んでいる心算だったが予定していた音羽山西尾根への取付きは何時しか通り過ぎていた。支流の谷も明瞭な道なのでそのまま進んで行くと昨年の台風によるものと思われる倒木が登山道を塞ぐように倒れているが切断されて登山道部分が確保されていたので安心して進むことができた。適度に赤テープもあり歩く人はいるようだ。水線のある谷をそのまま遡行すると遠回りになりそうなので左岸の枝沢に取付くと恐ろしく傾斜が急でガレ場の足元は崩れそうで慎重に登って行った。谷が深いのかGPSからピーと云う音がし衛星信号をロストしてとんでもない処を示すようになった。

水流が途切れ谷の窪みが薄れると何処を歩いても同じようで送電線が近づいて来ると音羽山(593m)山頂に乗り上った。山頂には送電鉄塔がありフェンスで囲われていた。山頂標識はフェンスに掲げられ、その手前には3等三角点「小山」が設置されていた。山頂からの展望は素晴らしく背の低い東山連峰が横たわりその後方には西山連峰が横たわっていた。府県境の山で東の方には琵琶湖が見え煙霧のたなびく上に蓬莱山(1,174m)を始め比良連峰が望めた。眼下の山科盆地はJRの列車や新幹線がおもちゃのように見えパノラマを楽しめた。激闘の疲れを癒していると次々と登山者が登頂してきた。皆大谷から登ってきたようだ。

滋賀県との境界尾根を南に進み牛尾山を目指していると稜線道と分かれて牛尾観音への下山路を下り始めてしまった。稜線に戻って東に進むと牛尾山(546m)に達した。山頂標識もないはっきりしないピークだった。南側の小ピークを越えた鞍部で東海自然歩道が東に分岐し石山へと下って行った。府県境尾根の縦走路は南東方向に続き徐々に標高を上げて千頭東峰(600m)に到った。現地の標識には「東千頭岳」と記されていた。山頂からの展望はなくベンチがあり昼食休憩を取った。

西に進み小高いピークに達すると何処から来たのかオフロード車が上がって来ていた。千頭岳西峰(602m)は山頂付近で送電線が交差し、山頂には赤白に塗り分けられた巨大鉄塔がフェンスで囲われていた。三角点を探すとフェンスの東側で本来フェンスの内側に入る位置だが三角点部分はフェンスが食い込んで外側に出ていた。そのフェンスに山頂標識が掲げられていた。近道はないかと探すとフェンス沿いに踏み跡があり下ると登山道の合流地点に赤テープが巻かれていた。

鞍部から京都国際CCのエリアへと入って行ったが、このゴルフ場は平成24年9月の台風18号でコースに被害を受け、取付道路も途絶し営業を休止、折から会社更生手続きが進められていたがそのまま事業廃止となってしまった。コースの跡はメガソーラーの施設となりコース一面にパネルが敷き詰められていた。施設の外側を迂回して進みゴルフ場の取付道路に抜けた。車道から登山道への分岐を地形図で確認して薄い踏み跡を谷に下りて行った。上がらなくてもよかったが小ピークを経由して谷を進んだ。牛尾観音からの道が合流し西に進んで高塚山(485m)に到るが3等三角点「高塚」があるだけで山頂標識はなかった。ベンチのある所から山科の市街が見えた。

来た道を戻り再びゴルフ場跡への道に出て南下すると西側に展望地があり伏見桃山城や大岩山が見えた。大岩山にあった伏見桃山ゴルフコースも平成26年に廃業してメガソーラー施設に変わっていた。横峰峠に達すると府道782号線が越えているが西側は荒れたダートで車の走れる状態ではない。此処から登山道となり南下して醍醐山(454m)に到った。登山道の途中に山頂標識が掲げられただけのピークで呆気なかった。この先は上醍醐で有料エリアとなるので引き返し横峰峠から府道782号線を下るが途中に短絡道があり入って行くと倒木が道を塞ぎ整備されていないので跨いだり潜ったりして進んだ。横峰峠からの登山道支線に合流したが状況は変わらず本道と合流して状況が好転した。

障害物の無くなった道を下っていると自転車を押した男性が登って来た。凸凹が酷く乗ったまま走るのは難しいようだ。女人道に達すると上醍醐からの道が合流し、醍醐寺の有料エリアのフェンス裏を歩いて醍醐寺仁王門に到った。三宝院の前を通り総門から振り返ると紅葉で賑わう仁王門の上に醍醐山の稜線が横たわっていた。醍醐東団地を通り地下鉄醍醐駅に到り山行を終えた。早く終わったので京都駅に戻りゆっくり反省会をした。

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