写真1: 竜門の滝
平成27年2月1日(日)
近畿百名山の竜門岳(904m)は多武峰(とおのみね)の南東、音羽三山の南に位置する。南麓の谷間には竜門の滝や龍門寺跡がある。多武峰の談山(たんざん)神社や明日香村の石舞台古墳と大化の改新当時に思いを馳せ古都奈良の山を巡った。
【メンバー】 山本浩史L、畑中里子、井上純子、國領孝子、小西幸一郎 計5名
【行 程】 京都6:08-8:18大和上市8:23=(タクシー)=8:34吉野山口神社8:35~9:03竜門ノ滝~10:22竜門岳10:38~11:10三津峠~11:30梅咲山~12:14大峠~13:13不動滝~13:44談山神社14:05~15:00石舞台古墳~15:15明日香観光会館15:17=(バス)=15:33飛鳥15:58-17:18京都
【登山データ】 曇り一時雪 歩行15.8㎞ 6時間40分 延登高1,084m 延下降1,207m 2座登頂
京都を出発するときは吹雪だった。近鉄京都線で奈良に入ると雪の降った形跡はなく曇り空だ。橿原神宮で吉野線に乗換え大和上市から吉野山口神社に向った。平日はコミュニティーバスがあるが日曜日は走っていない。2台タクシーが客待ちしており分乗した。6人乗りがあれば1台で済んだのだが・・・。吉野山口神社は大山祇神(おおやまずみのかみ)を祀る。並んで鎮座する高鉾(たかほこ)神社は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)を祀り、嘗ては竜門山頂にあったが500年前にこの地に遷されたそうだ。神社の北側に抜けて山口集落を奥へと進むと人家が途切れ林道は谷間に入って行く。神社から1.5㎞進むと竜門の滝に達する。林道から少し下ると3段に分れ流れ落ちる優雅な滝を見ることができる。少し北側の谷間には嘗ての龍門寺の寺域で塔跡や金堂跡の礎石が残る。創建は7世紀後半と云われ久米仙人が居た所と伝わる。
林道は谷を高巻いて進み並行する谷の中央の尾根を詰め切ると林道は途切れ登山道が始まる。漸くトップをお願いした井上さんを先頭に一列になって登山道に入ると雪が現れ出し徐々に白さを増してきた。気温が低く樹氷が綺麗だ。思い切り高巻いたかと思うと枝沢が上って来て再び谷が近づいた。谷と分れ南西尾根に取付くと傾斜が増し龍門岳(904m)へと乗り上がった。登山口の吉野山口神社横に遷座された高鉾神社は元々此の山頂にあった。今も祠があるがこれは嶽神社で別物だ。神社前には1等三角点「竜門岳」が設置されている。風が通り寒いので神社の壁に張り付くようにして休憩した。
山頂の積雪は2㎝位だろうか、長く休むと体が冷えるので、15分程で切り上げ記念撮影をして山頂を後にした。少し下ると烏ノ塒屋山(からすのとやさん)・別所方面への分岐に達し左へと道を取る。100m弱下ると送電鉄塔が横切り、開かれて見通しが良い。反射板1組と、大峠付近にあるものと一対になる片割れの反射板もあり鉄塔が4本も立っている。金剛山、大和葛城山、二上山のダイトレ山脈が優雅に横たわるが白いものは余り見えない。北の方に眼をやると熊ヶ岳(904m)が白く円錐形の美しい姿を見せている。
稜線が90°向きを変え真西に進む、なだらかな道で再び北に向きを変えると三津峠で標識には「三津峠」の文字は無く「←三津」と「←細峠」を指していた。「三津」とは峠ではなく三津集落を指しているのであわや間違って下ってしまうところだった。三津峠からの稜線道は笹が被り急に歩き難くなった。東斜面は簡易ケーブルが張られ林業者が伐採した木の搬出作業をしていた。雪を被った笹を漕ぐのは一苦労で井上さんは雪塗れになりながらもトップを務めてくれた。稜線を進む筈の登山道はいつの間にか巻道となりこれはおかしいと西に張り出した尾根を山頂へと這い上がった。道は無いがこの方が幾らも歩き易い。このピークの麓辺の木に「梅咲山」を書かれていた。山主の名前かもしれないがしっかりとピーク性があるので梅咲山(800m)として山名として数えることにした。
稜線に這い上がっても道らしきものは無く、巻道が正式になってしまっているようだ。下りも道は無くコンパスを合わせて下りて行くと鞍部で巻道に合流して細峠分岐に達した。近畿百名山シリーズでは読図ミッションを行うのが恒例だが、地図に印刷して来たミッションは何んと12月の養老山の時のものだった。リーダーのチョンボで今日はミッションはなし。確か細峠分岐北のP803の位置特定を設定していたような気がしたが・・・
樹氷は歯ブラシのように綺麗で決勝まで見えそうな気がする。稜線を進み大峠(773m)に達した。大峠の標識の他にお地蔵さんを祀る祠と「女坂伝承地」の石碑がある。宮奥ダムからの道と熊ヶ岳への稜線道が分岐するが今日は此処から不動滝へ下山する。2.5万図のルートは乱れて尾根筋を下っているが実際の下山路は谷筋に導かれ直ぐに林道に達した。林道がアスファルトに見え井上さんが不用意に足を出してスリップし強かに転倒してしまった。何んとコンクリート舗装された林道に流れた水が凍結しツルツルになっている。よく見ると氷の下を水が流れている。此れは危険とアイゼンを履くが、計画書の装備を無視して軽アイゼンを持ってこなかった畑中さんは先行して路肩を選んで下りて行った。此れも案外正解だったようで着脱に時間の掛っている間に先に集落近くに達しおやつを食べていた。
針道集落に到ると宮奥ダムから大峠トンネンルを越えてきた道が地上に現れた。来るときに乗ったタクシーの運転士は1日に5台程しか通らないと言っていた。そんなことは無いにしろ通行量は極少ないようだ。此の新道の下を3度潜り八井内集落に達すると焚火が焚かれ大勢の人が群れている。祭かと思ったが、極真会の空手の寒稽古が行われていた。不動滝の位置が分らなかったが此処だった。大人たちが滝壺に入り気合を入れている。それを見ている道着を着た子供達もこの後入ると云う。おう寒!
県道に出て談山神社への分岐点に屋根の付いた橋“屋形橋”がある。神社への参道で擬宝珠には寛政3年(1791)の銘があった。談山神社は天武天皇9年(680)に創建された妙楽寺を起源とする。中臣鎌足の墓を摂津からここ多武峰(とうのみね)移し建てられた十三重の塔は678年には出来ていたと云う(現在のものは享禄5年(1532)の再建)。明治の時代に入ると廃仏毀釈により寺は廃され神社となるが伽藍はそのまま使われ仏教風神社で面白い。神社向側の展望台からは談山神社が一望でき、その背後にある談山(かたらいやま566m)は鎌足と中大兄皇子が大化の改新の相談をした所とされている。更にその奥にある御破裂山(ごはれつやま)は国家に大変があると鳴動したと伝わる。
西に進むと西大門跡に到る。「下乗」と「女人禁制」の石碑が残り150㎝程度の石垣が鍵形に設置されていた。稜線ルートを辿り石舞台へと下りようと思っていたが明日香村ハイキング道などの道標に導かれて地図も見ずに歩いてしまいいつの間にか冬野川沿いに下ってしまった。引き返すのも億劫でそのまま行くことにした。しかし上(かむら)集落に達すると重畳たる棚田が素晴らしく損はなかった。細川集落まで来ると稲淵の棚田が一際素晴らしく臨まれた。畑中さんの案内によると彼岸花の咲く頃、案山子ロードとして賑うらしい。
此処まで来るともう明日香村の古代史エリア、県道の分岐を曲がると石舞台古墳が見えてきた。蘇我馬子の墓とされるが定かではない。それにしてもデカイ! 横穴式石室が露出し巨岩が載せられている。石室の総重量は2,300噸もある。重機のない7世紀初頭にどのようにして積んだのだろう。橿原神宮へのバスは5分前に行ってしまった。1時間後のバスを待つてまでもなく、飛鳥駅まで歩こうと相談が決まり歩き始めたが明日香観光会館前のバス停で時刻を見ると飛鳥駅行が2分後にある。歩行を中止してバスで飛鳥駅に向かった。
写真2: 竜門岳山頂にて
写真3: 石舞台古墳(明日香村にて)