京都比良山岳会のブログ

山好きの社会人で構成された山岳会です。近郊ハイキングからアルプス縦走までオールラウンドに楽しんでいます。

〈個人山行〉京都百名山シリーズno.97 喜撰山

令和元年12月14日(土)

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喜撰山(416m)は、宇治市池尾にある山で平安時代六歌仙喜撰法師がこの地に隠棲したことに因む。また「喜撰」とは宇治茶の銘柄でその上級品を「上喜撰」と称したことから幕末ペリーが4隻の黒船で来航した際、「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たつた四杯で 夜も寝られず」と読まれた狂歌は幕末の混乱の始まりを上手く風刺して面白い。

【メンバー】 山本浩史L、安宅耗人、中尾諭、高橋秀治、土井司、松本正

【山  域】 京都府宇治市

【行  程】 京都8:32-8:52宇治9:02~9:18宇治神社~9:22宇治上神社~9:48仏徳山~9:56朝日山~10:29神女神社~11:43小ピーク12:05~12:45喜撰洞~12:53喜撰山13:00~14:03槇尾山~14:58天ヶ瀬ダム15:04~15:50宇治15:55-16:12京都

【登山データ】 晴れ 歩行18.2㎞ 6時間48分 延登高1,057m 延下降1,057m 4座登頂

宇治は世界遺産になった平等院宇治上神社の観光と宇治茶が観光地としてクオリティーを上げ沢山の外国人観光客を集めている。然も今日はJR東海のさわやかウォーキングのイベントが行われ日本人ハイカーも多く訪れていた。イベントのコースは宇治川左岸から天ヶ瀬ダム方面を往復するようで宇治橋までは彼らのルートと被った。宇治茶のお店が並ぶ通りは電柱が地中化され観光地としての雰囲気を醸し出していた。宇治橋を渡り右岸の道を歩いていると12月中旬だというのに今が盛りの紅葉が楽しめ宇治神社に達した。

宇治神社のすぐ北にある宇治上神社世界遺産に認定され多くの参拝者が訪れていた。本殿は国宝で神社建築としては最古の流造の様式で覆屋の中に菟道稚郎子命(いじのわきいらつこのみこと)、応神天皇仁徳天皇を祀る内殿3棟がある。境内には宇治七名水のうち唯一現存する「桐原水」があり建屋に覆われていた。神社の横手から“さわらびの道”に出てすぐ大吉山展望台への道が分岐した。何度も折り返す車道のような道で展望台に達すると平等院が眼下真正面に見え素晴らしい。

もう少し進むと仏徳山(132m)山頂に達したが、此処からは展望は得られない。小さな山頂標識が掲げられ「大吉山」と括弧書きが付されていた。仏徳山はこの真下にある光正寺の山号が山名として一般化したのだろうか? 3等三角点「旭山」が山頂標識の前に積まれた小石の山の前に置かれていた。一体何の小石なのだろう? 少し下って「朝日山観音→」の標識に従って進むと山頂に向かう道が分岐した。山頂域に達すると赤い屋根の観音堂があり信仰登山の地元の人々が訪れていた。山頂は10m程先で朝日山(124m)の小さな山頂標識が掲げられ、菟道雅郎皇子之墓があった。宇治上神社の祭神の“菟道稚郎子命”のと一致するが、日本書紀によると応神天皇により皇太子に立てられたが異母兄の仁徳天皇皇位を譲るために自殺したとされる。これで宇治上神社の3神の関係が紐解けた。因みに宮内庁の管理する墓が三室戸駅近くにある。

東海自然歩道を歩き志津川集落に下りた。志津川を渡り東の尾根の麓に到ると神女神社がありその裏から微かな踏み跡が続いていた。徐々にしっかりした道になりP290に達すると送電鉄塔が近くにあり現在位置を確認できた。この先の稜線は送電線と絡むように北北東に進むことになった。次のピークでは別系統の送電鉄塔があり眼下には採石場が広がっていた。志津川を挟んだ北側には、五雲峰(343m)と日清都CCのコースが望め、志津川上流を見ると陶芸の里炭山集落が谷合に隠れ家のように一塊に集落を形成していた。その上方には日野岳(373m)や比叡山(848m)も望めた。

稜線の縁に出るとギリギリまで削り取られた山肌が無残にも土を曝け出していた。時間が押して来たので喜撰山での昼食を諦め、送電線を3回潜ったピークで取ることにしたが、知らぬ間に4回潜ってルートを外れ東側のピークに飛び出していた。展望のないピークで休憩し昼食後は送電巡視路を辿り喜撰山ダム湖からの道に下りることにした。山麓送電鉄塔を目指して南東に尾根を下ると送電鉄塔の周辺が伐採され喜撰山の展望が得られた。車道に飛び出す処は不明瞭で道路から取付くのは難しいだろう。車道を歩き峠まで進むと東側は喜撰山ダム湖でダム本体まで望めた。

喜撰山ダムは、寒谷川に設けられた揚水発電用のダムで、下池である天ヶ瀬ダム湖(鳳凰湖)との間で水を往来させて発電しているのでダムから直接流れ落ちる水はない。ダム本体は公開されていないので取付道路もフェンスで立ち入りが規制されている。フェンスの横から喜撰山登山道が始まり、暫く上ると直登路から喜撰洞への巻道が分岐した。巻道を進み西側の谷間に出ると岩の隙間の奥に円満そうな姿の喜撰法師像が安置されていた。喜撰法師平安時代六歌仙の一人に数えられる人で宇治山に隠棲したと伝わる。また「喜撰」とは宇治茶の銘柄でその上級品を「上喜撰」と称したことから幕末ペリーが4隻の黒船で来航した際、「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たつた四杯で 夜も寝られず」と読まれた狂歌は幕末の混乱の始まりを上手く風刺して面白い。

西尾根に廻り込み喜撰山(416m)山頂に到ると3等三角点「喜撰山」があり倒れた木に黄色い山頂標識が括り付けられていた。暫し休憩して南東に下った。やがて林道に出ると比較的整備された車道だがビニールのゴミが散乱していた。西側の下の方には宇治市の粗大ごみ処分地がある。地形図から採石場かと思われたが、人里離れた山中に埋めているのだろうか? 登山道のゴミは風で舞い上がったものが散乱したのではなかろうか? 赤松林の林道は気持ちよいがゴミが気になってしようがなかった。

長い林道歩きの末、天ヶ瀬森林公園の案内板のある所に達した。工事用のコーンが置かれ穏やかではないが気にせず入って行った。軈て“眺望の道”と“ツバキの道”が分岐し、“眺望の道”を行くと槇尾山(330m)山頂に到った。展望台が設えてあるが展望は朝日山方向だけに限られていた。水分が多くなってきたのか霞んで見通しが悪い。“落ち葉の道”から野鳥観察小屋に到ると千両なのか万両なのか真っ赤な実を付けた木と稍オレンジ掛った実を付けた木が並んでいた。馬ノ背展望台は、周りの木が育ち過ぎて最早展望は失われ只のお立ち台となっていた。“憩いの広場”に達すると森林公園の入口で昭和63年荒巻知事揮毫による「共遊槇尾山 想緑豊国土」の石碑があった。

ここで地図を確認すればよかったのだが明瞭な道の方に何の疑いもなく進んで行くとどんどん山中に入って行き大きな山の壁に到り、「?」となり全く逆方向に進んだことに気が付いた。虚しく引き返し「ダム近道→」の標識を見つけ階段を下り天ヶ瀬ダムに下り立った。しかし紅葉の道を歩き、展望台から天ヶ瀬ダムを望めたのは間違ったからこその怪我の功名でまあよしとしておこう。天ヶ瀬ダムは昭和39年に完成したダムで大正13年に建設された志津川ダムを飲み込んでしまった。この地には嘗て“おとぎ電車”なる列車とプロペラ船が観光に寄与していたが昭和35年5月までに廃止になりダム湖に沈んでしまった。

川沿いの道が災害で通行できず、歩道のない府道3号線を歩き宇治市街に戻った。平等院前に来ると冬の夕日を浴びた仏徳山が美しく、心配されたさわやかウォーキング一行とバッティングすることもなく宇治駅に戻ることができた。京都行の快速が5分後の絶妙な時間にあった。京都駅前で反省会を行い18時過ぎに解散した。

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写真1: 喜撰山山頂にて

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写真2: 天ヶ瀬ダム槇尾山(330m)

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写真3: 中ノ島と仏徳山(132m) 平等院裏より