京都比良山岳会のブログ

山好きの社会人で構成された山岳会です。近郊ハイキングからアルプス縦走までオールラウンドに楽しんでいます。

〈個人山行〉京都百名山シリーズno.100 笠置山・柳生街道

令和2年1月25日(土)

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京都百名山シリーズは最終回を迎え南山城の笠置山(288m)に登った。笠置山後醍醐天皇が行在所を置いた山で巨石の散在する行場の山である。笠置の南に位置する柳生の里から奈良に抜ける間道のような柳生街道を歩き奈良に到った。折から若草山の山焼きの日で三条通から鑑賞することができた。

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【メンバー】山本浩史L、安宅耗人、加藤一子、岩波宏、土井司、小前竜吾、岩波昌美 計7名

【山域】京都府笠置町奈良県奈良市

【行程】京都7:04-8:24笠置8:36~9:08笠置寺~9:38笠置山9:43~19:59笠置寺~10:24阿対の石仏~11:04天石立神社~11:37阪原峠11:52~12:21南明寺~12:56夜支布山口神社~13:36円成寺~14:42石切峠~14:56地獄谷石窟仏15:06~15:28高円山~15:55大文字火床16:00~17:14なら町~三条通(山焼き鑑賞)~近鉄奈良22:10-22:58京都

【登山データ】晴れ後曇り 歩行28.6㎞ 8時間38分 延登高1,344m 延下降1,310m 2座登頂

関西本線の加茂から先は、ICOCAが使えず、ワンマン列車での精算に手間取った。笠置山(288m)は駅の東側に位置し、駅から一望することができる。車道が山頂部まで上がり参拝者は山門近くに車を止め行くことができる。入山には拝観料300円が必要で開門は9時、山門を入ると直ぐに受付があり9:10に有料エリアに入った。行場巡りは大岩が重なり修験の山であることが知れる。

正月堂の横には本尊の巨大な弥勒摩崖仏があるが光背だけで弥勒の姿は浮かび上がらなかった。笠置寺縁起では、天智天皇の子、大友皇子がこの地に鹿狩りに来た時断崖絶壁で立ち往生してしまい山の神に「もし助けてくれるならこの岩に弥勒の像を刻みましょう」と祈り目印に笠を置き、無事に帰還することができた。誓いを果たそうと後日この地を訪れると天人が現れ忽ち刻んだと云う。笠置の地名は大友皇子が笠を置いたことが由来だそうだ。

此の他にも磨崖仏は点在し、虚空蔵菩薩磨崖仏は線刻がしっかり残っていた。胎内くぐり、ゆるぎ石や平等石、貝吹岩など巨石が点在している。笠置山山頂部は後醍醐天皇の行在所跡とされ登り口には御醍醐天皇御製の石碑が置かれていた。大師堂から階段を下りると行場巡りが一周し受付の小父さんに挨拶して柳生への道に踏み出した。登山道は直ぐに真新しい舗装道路に吸収され“かさぎゴルフ倶楽部”の南端を辿って府県境を越えた。

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県道4号線に合流し、打滝川の右岸の遊歩道に逃れると摩崖仏の“阿対(あたや)の石仏”があり花が供えられていた。柳生下町の集落を進むと西の山麓に十兵衛杉と呼ばれる涸れた大杉が望まれた。柳生但馬守宗矩の子、柳生十兵衛三厳が旅立つときに植えたと伝わる。柳生家老屋敷を遠くに眺めて柳生陣屋跡の丘の処から東へ折れ天石立神社(あまのいわたてじんじゃ)へと向かった。大岩が転がる谷を進むとご神体の前立磐と後立磐が人工物のように並び、奥の方に柳生石舟斎がこの地で修行中に現れた天狗を一刀のもとに切ったと思った瞬間、天狗は消え割れた巨石が現れたと云う。

引き返し国道369号線を横断し疱瘡地蔵に到った。これも摩崖仏で右下には正長元年柳生徳政碑が刻まれ、「正長の土一揆」の際に農民の側が勝ち取った「徳政令」を称えていた。里の中では昼食適地もなく阪原峠(357m)を目指した。一寸した陽だまりがあり皆思うままに寛いだ。地形図には峠のすぐ南に三角点峰があるので昼食は早く済ませて一人で標高差50mを駆け上がった。4等三角点「阪原」(405m)がある筈だが、ピークには小さな石仏があるだけで探し回ったが見つからなかった。

南明寺への指導標に従って阪原町へ下りて行くと山里の集落は耕作放棄地もなく民家からも豊かさが感じられた。南明寺は観光寺院ではなく立入りもできなかった。小さな峠を越えて大柳生町に入って行くと棚田が美しく集落の外れに差し掛かると石室の露出した水木古墳があった。田んぼの中の道を複雑に進むが柳生街道(東海自然歩道)として整備されおり指導標が充実し迷うことはなかった。

集落内の小高い処に夜支布山口神社があり、トイレも設置されていた。「夜支布」と書いて「やぎゅう」と読ませるらしく素盞嗚命(すさのおのみこと)が祀られていた。本殿に向かって右側に大きな摂社立磐神社があり春日大社の第四殿を延享4年(1747)に、ここに移したと云われる。山口神社よりこの摂社の方が古くからあったらしい。山麓を巻くように北上し白砂川を渡ると、橋の欄干に「東海自然歩道」とあり、自然歩道の為に掛けられた橋であるかのようだった。

人里を離れ登山道となり複雑な地形を指導標に従って進むと徐々に標高が上がり、人家が現れると忍辱山(にんにくせん)町に入った。忍辱山円成寺真言宗御室派の古刹で天平勝宝8年(756)聖武上皇孝謙天皇の勅願で、鑑真和上の弟子、唐僧虚滝和尚が開山したと伝わる。国宝大日如来を始め重要文化財が多数あり、短時間で見学するのが惜しく拝観はまたの機会に取っておいた。門前で観光バスから降りた団体があり、拝観するのかと思ったら柳生街道へと歩いて行った。軈て追い付き添乗員(ガイド?)に「奈良まで歩き山焼見物か?」と問うと「そうだ」と云っていた。

山間部の山歩きが続き上誓多林の集落に下りる直前に481mの3等三角点「誓多林(せたりん)」のピークがあり、此れも一人で立ち寄って見た。何もない山頂で三角点だけが静かに佇んでいた。上誓多林集落からは登りで石切峠の手前に達すると“峠の茶屋”があり、「営業しているのかな」とか喋っていたら、中からおじいさんが「やってません」と返って来た。すぐ峠で北に芳山(ほやま)へ行く道があるが時間が押しているので端折って南下し高円山を目指した。地獄谷へ下りる道は通行止めとなりバリケードで封鎖されていた。その脇から稜線道を辿ったが此方も結構荒れていた。

地形図によると地獄谷道に“地獄谷石窟仏”と書かれた処があったが場所が違っているようで稜線道の途中に出てきた。岩の庇の下に線刻された廬舎那仏が十一面観音と薬師如来を従え鎮座していた。鉄の門扉があり上部は有刺鉄線で囲われ、余りの厳重さに興ざめしてしまった。車道に下り立ち高円山へと進んだ。車道の分岐地点に高円宮憲仁親王殿下御手植の樹木が育ち傍らには大伴家持の「高円の 秋野の上の 朝霧に 妻呼ぶ牡鹿 出で立つらむか」の歌碑があった。実物は万葉仮名で書かれていたので現地では解読できなかった。高円山(461m)山頂は何もないが人の手が入った中途半端な広場で真新しい山頂プレートが掲げられていた。展望良く奈良盆地が一望でき生駒山(642m)が横たわっていた。その右肩は六甲山系のようだ。

北西の尾根を辿り2等三角点「白毫寺」(432m)に到ると“有志山の会”と記された「高円山三角点」の標識が掲げられていたが、点名が間違っていた。三角点から西に下ると開けた処に飛び出した。火床があり景色が素晴らしく、生駒山、六甲山、京都の愛宕山を望むことができた。此処は昭和35年に京都の大文字山を模して作られ毎年8月15日に送り火が行われているそうだ。因みに京都は8月16日に行われている。火床の草原に三脚を立てた人達が何人かおり、正面に見える若草山の山焼きの写真を撮ろうと2時間以上前から待ち構えているという。

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大文字の右足の部分の尾根を下り白毫寺町の人里に達した。春日大社に立ち寄って“大どんと”を見たかったが時間が押しているので此方もパスした。若草山山焼きは春日大社の大どんと焼きの火が種火として使われるそうだ。東海自然歩道の標識に従って歩いていると「円成寺→」の標識となり一周回って夜業の里に引き戻されそうになった。奈良教育大学の縁を歩き市街地に入り、猿沢の池から“なら町”に到り、草鍋のお店に入って京都百名山シリーズの打ち上げを行った。19時前に三条通りに行くと花火は終わった後だったが、山を線刻のように火が走り美しかった。奈良の名残が尽きず家に辿り着いたのは日付が変わる寸前だった。