京都比良山岳会のブログ

山好きの社会人で構成された山岳会です。近郊ハイキングからアルプス縦走までオールラウンドに楽しんでいます。

〈個人山行〉京都百名山シリーズNo.64~69​高雄山・沢山・桃山・左大文字山・衣笠山・船岡山

平成31年2月24日(日)

同行者がなかったので二つの計画を一つに繋いで高雄山(429m)、沢山(516m)、桃山(466m)、左大文字山(231m)、衣笠山(201m)、船岡山(112m)の京都百名山6座を一気に登った。

f:id:hirasankun:20190302220129j:imagef:id:hirasankun:20190302220146j:image

f:id:hirasankun:20190302220159j:image

【メンバー】 山本浩史(単独)

【山  域】 京都市右京区・北区・上京区

【行  程】 京都6:50=7:39山城高雄7:43~8:31文覚上人墓~8:49高雄山~9:37福ヶ谷林道入口~10:22福ヶ谷林道出合~10:48仏栗峠~11:05沢山11:34~12:03吉兆山~12:20桃山~12:44紙屋川~12:58大北山鷲峯町~13:14鷲ヶ峰~13:36鷹ヶ峰~13:45左大文字山~14:22衣笠氷室町BS~14:43西源山~15:11衣笠山~15:55船岡山~16:35今出川16:39-16:50京都

【登山データ】 曇り 歩行25.1㎞ 8時間52分 延登高1,603m 延下降1,703m 10座登頂

 

京都駅から始発のJRバスに乗り山城高雄で降り、清滝川へ下る遊歩道を歩こうとすると昨年9月の台風による土砂崩れで通行止めとなっていた。仕方がないので槇尾まで周山街道を歩き清滝川沿いの府道138号線に入った。谷山林道入口で清滝川を渡ると西明寺裏参道が右に分岐した。谷山林道も台風の被害で通行止めになっていて少し気が引けたが少しだけと自分に言い聞かせてバリケードを越えた。谷山川に沿って進むと斜面に台風の爪痕が見える。右岸に波切不動の像が現れ鉄橋で渡り参拝して谷筋の登山道へと取り付いた。道形はあるが殆ど歩いた形跡はなく古い倒木が苔生していた。樵小屋の跡が現れると分岐で地形図に従って左の巻き道に入った。尾根の先端に到ると尾根に取り付き首無地蔵から神護寺に下りる登山道に合流した。

P342を目指して斜面を這い上がり稜線に乗り上った。P342へと南下すると堀切のような人工を思わせる地形があり、嘗ては神護寺のエリアであるので城跡ではなく寺の何らかの施設があったのではないだろうか。P342に到ると比較的平坦な広さがあり嘗ては何かあったようだ。少し南に下りると性仁親王の墓があり、隣の少し高い所に神護寺開祖の文覚上人の墓があった。

此処からの展望は良く神護寺の甍や菖蒲谷山が望めた。天気は良いが霞みがかかって市街地は今一はっきりしない。引返して稜線の道なきを高雄山へと這い上がった。3等三角点「高尾」があり小さなプレートが掲げられていた。北に進み谷山林道への林道を目指して道のない尾根を下ると地形図にある林道に出たが実態は少し違う所を通っていた。この林道も途中で途切れ斜面を下ると再び林道に復帰した。朽ちた橋を渡り谷山林道に戻ると直ぐ波切不動に戻った。

槇ノ尾から福ヶ谷林道に入り急傾斜を遡って行くと谷の分岐地点の中央に顕著な尾根があり地形図に登山道が描かれているので取り付いた。稜線に乗ると道形が認められるが最近歩いた人はないようで荒れ放題だった。ピークまでは何とか道形があったが先には全くなく地形図では巻き道になるので諦めて稜線に這い上がった。何となく踏み跡っぽいものがあり辿って行くと福ヶ谷林道の京都トレイル分岐点に下り立つことができた。

京都トレイルのしっかりした登山道に入ると山主による立ち入り禁止の表示が頻繁にあり、ルート外を歩くことは憚られる。仏栗峠に至ると京都トレイルは沢池へと下って行った。稜線を直進し吉兆・桃山への縦走路を進んだ。沢山前衛ピークから北に分岐し沢山(516m)に達した。2等三角点「鷹峰」があり“澤山”と旧字体の山頂標識が掲げられていた。昼食休憩を取り前衛ピーク迄引返し吉兆山へと向かった。沢山、吉兆山、桃山は太秦の北側に横たわる連山で京都南郊から見ると三つの瘤の京都らしい山容を示している。縦走路から少し北に行った処が吉兆山(470m)山頂で展望は利かない。桃山(466m)も展望の利かず山頂標識を写真に収め先に進んだ。

f:id:hirasankun:20190302220809j:image

桃山からは原谷に下りる道もあるが北への稜線には地形図には描かれていないが明瞭な道があり所々に指導標が設置されていた。鷹峯の紙屋川に下り立つと左岸は平成24年7月の豪雨による土砂崩れ現場があり治山工事で剥き出しの山肌を表れていた。

車道歩きで紙屋川から原谷川に入り、鷲ヶ峰に源を発する谷を遡る林道に入った。二つ目の堰堤で林道は途切れた。トタン屋根の小屋があり林業に使われていたようだ。堰堤の手前に梯子がありこの地点から稜線に這い上がった。微かに踏み跡を辿り鷲ヶ峰(314m)山頂に達した。弧を描くように進むと鷹ヶ峰(260m’)で少し戻って左大文字山(231m)に到った。木立の間から鷲ヶ峰を振り返ることができた。少し南に下ると五山送り火の火床で京都市内を一望でき素晴らしい。先客があり工事用のヘルメットの人もいたので送り火関係者かも知れない。この山の金閣寺側の麓はフェンスで閉ざされ北側からしか登ることができない。比叡山、(右)大文字山、そして最後に行く船岡山もよく眺められ、今日の山行で唯一の展望の利く山だった。

f:id:hirasankun:20190302221026j:image

鷲ヶ峰への分岐に戻り以前歩いた大北山からの尾根の一本西の尾根を下った。あまり歩く人がいないようで荒れているが道形はしっかりしていた。尾根の先端部で西に振れ氷室道の衣笠氷室町バス停の位置で車道に下り立った。道路の対面で原谷への峠道に入り2m幅程の階段道を登って行った。峠に至ると反対側は舗装された車道で左に折れて稜線を進んだ。暫く行くと稜線上に道路にあるガードレールが設置され、かなり違和感のある光景で北側は原谷の人家の庭のようで散らかり方に嫌悪感を覚えた。

西源山(251m’)は何もなく御室への道と衣笠山へ道が分岐した。南に下ると衣笠赤坂町の波切不動寺に下る林道が西に分岐したが土砂崩壊で通行止めになっていた。比叡山船岡山の展望が良く、朱山が大きく見えた。稜線道には龍安寺の標石があり南側が龍安寺領であることを示し、立入禁止の表示がされていた。朱山(192m’)の山頂部は円融天皇火葬塚となっている。正式な円融天皇陵は宇多野にあるようだ。第64代の天皇で在位は安和2年(969) 9月27日~永観2年(984) 9月24日で25歳で退位されている。

南尾根を南下すると一條天皇園融寺陵と堀河天皇後園融寺陵が同じ敷地にあった。一條天皇は第66代で寛和2年(986) 8月1日僅か6歳で即位し寛弘8年(1011) 6月13日に退位し12日後に31歳で亡くなられている。堀河天皇は第73代で応徳3年(1087) 1月3日に即位し嘉承2年(1107) 7月19日の崩御まで20年間位にあった。

御陵の裏手にある「衣笠山→」の表示に従い40mほど登ると衣笠山(201m)に到った。展望はなく龍安寺への進入禁止を示す看板ばかりが目立った。正規の登山道は北に続き辿って行くと衣笠保育園に下りて来た。此処からは街中歩きで最後の船岡山を目指した。蘆山寺通を東に進みわら天神交差点の南西に金戄八幡があり信号待ちの間に立ち寄った。「金戄」は「金閣」に通じる読みで「戄」の字は訓読みでは「おどろく」と読むので「金に驚く八幡さん」では意味をなさず単なる当て字なのか?

千本鞍馬口から船岡山南の遊歩道に入り船岡山(112m)に到った。3等三角点「船岡山」があり少し北西側に左大文字、吉兆山、桃山が望める広場があった。南西側の建勲神社は裏側から入ることができず北から東側に回り込んで参拝した。神社前の階段から比叡山(848m)や大文字山の展望が良かった。再び街中歩きで堀川通を越えて茶道の街、小川通界隈を歩いた。日蓮宗本法寺の東側には裏千家今日庵表千家不審庵が軒を連ね和服姿の関係者が行き交っていた。今出川駅に到ると地下鉄で帰路に着いた。

f:id:hirasankun:20190302220958j:image