京都比良山岳会のブログ

山好きの社会人で構成された山岳会です。近郊ハイキングからアルプス縦走までオールラウンドに楽しんでいます。

No.3044  RDBの会 第22回 播磨の小京都・龍野~鶏籠山・的場山と天然記念物片しぼ竹の観察

鶏籠山、的場山は低い山でしたが、直登が多く、登り甲斐のある山でした。

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的場山山頂にて

No.3044 2010年9月19日(日)

RDBの会  第22回

播磨の小京都・龍野~鶏籠山・的場山と天然記念物片しぼ竹の観察

52期 尾崎 稔

【参加者】CL西田和美、辻野喜信、四方真知子、山本憲彦、奥野淳子、尾崎稔

                計6名

【天候】晴天

【行程】

11:15龍野観光駐車場-11:20~30梅玉にて片しぼ竹鑑賞-11:41鶏籠山古城登山口-12:04~35二の丸跡(昼食)-12:40鶏籠山山頂(本丸跡)-12:54両見坂-13:35的場山山頂-14:10野見宿禰神社-14:19三木露風像-14:30龍野観光駐車場-14:50~16:00西田邸

【記録】 52期 尾崎 稔

 中国道渋滞の為、当初の予定より30分遅れで龍野観光駐車場を出発。十文字川「どじがわ」沿いにアスファルトの道を歩き出すと、天然記念物である片しぼ竹を鑑賞する為、片しぼ竹の宿「梅玉」に立ち寄った。しばし鑑賞した後、白壁の武家屋敷、国木田独歩の父である国木田専八の邸宅などを眺めながら、登山口を目指した。龍野城の西側にある隅櫓を見ながら城門をくぐり進むと、紅葉谷コースと龍野城登りコースの分岐に着いた。右側に進路をとり龍野城コースから登り始めた。道はかなり急であり、少し秋らしい陽気ではあったが、一気に汗が出てきた。途中小休憩をとり進むと二の丸跡に到着。二の丸跡あたりからは揖保川や龍野の町が見ることができた。

 30分休憩後、本丸跡がある山頂を目指し、5分で到着。こんなところに本丸があったのかと感じるほど広さはなかった。眺望は良くなく、次の目的地である的場山を目指し下り始めた。途中、敵の攻撃に備える為の竪掘り跡があった。さらに下ると、紅葉谷コース、的場山のコース、北龍野に抜けるコースの合流地点である両見坂に到着。的場山コースに進路をとり登りだした。こちらの登りも直登であり、またまた汗が噴き出してきた。この尾根道を登りきると300mのピークに到着した。東側は展望が開けており揖保川を見ることができた。このピークから鞍部を二つ進むと、鉄塔が見え、鉄塔を横目に整備された階段をすこし登ると的場山に到着。南側がひらけており、淡路島を見ることができた。

 的場山は近畿自然遊歩道のコースの一部であり、北に進路をとると菖蒲谷森林公園へ通ずるが、今回は駐車場に戻るため野見宿禰神社を経由するコースをとり下り始めた。こちらの下りもかなりの急な下りであり、何とか転ばず野見宿禰神社に到着。野見宿禰は相撲の始祖と言われており、神社の玉垣に第十八代大砲万右衛門などの力士の名前が刻まれていた。この玉垣は明治、大正の横綱、行司が寄進したものであり、たくさんの力士が参拝した由緒正しき神社である。神社を後にして三木露風像や赤とんぼ歌碑のある龍野公園を経由し、武家屋敷を見ながら、十文字川沿いの道に入り、駐車場に到着となった。

 下山後は、西田さんの御実家で、お茶、お菓子、コーヒーを頂き、登山の疲れも吹き飛んだ。御尊父と御母堂と楽しく歓談しているとあっという間に時が過ぎた。4時過ぎに、京都駅組の車と尾崎車に分かれ解散となった。

【感想】 52期 尾崎 稔

いつもお世話になっている関西百名山で播磨アルプスを登山したので、今回の播磨の小京都であるたつの市の歴史ある鶏籠山登山は是非参加したいと思っていました。鶏籠山、的場山は低い山でしたが、直登が多く、登り甲斐のある山でした。

今回の山行で興味深かったのは野見宿禰神社です。西田さんから頂いた資料によると、昭和52年頃までは、双葉山北の湖などの名横綱が相撲を取っています。今の大相撲の凋落は、この地で相撲を取らなくなったことと関係あると思いました。初心に戻ってまたこの地で相撲を取ってもらいたいものです。

 もう一つ印象に残ったのは、西田さんの家にお邪魔した際、御両親からいろいろ西田さんの学生時代の話をして頂いたことです。西田さんは(注1)雨の日も風の日も、そして病気の日も学校を休まず通われたみたいです。

現在の比良山岳会での御活躍は、この龍野の地で育まれた(注2)強靭な精神と肉体の故であると確信できました。

 今回の山行はいろいろ勉強になりました。このような例会を企画してくださった西田さんありがとうございました。

(注1) 雨の日や風の日は学校が休みになり、3年間一度も学校を休むような病気にかからなかっただけです。

(注2) 強靭な八方美人精神と毒キノコのような肉体…でしょう。  注記…西田

【感想】   44期 山本憲彦

 今回の例会は、当初は西田リーダーで京都北山の植生観察に出かける予定でした。私が、「北山はまだ暑いし、ヒルも元気やろしな。」と言うと、季節柄、菌類の関係で特にお願いしていた西田リーダーが「絶対にヒルのいないところで、面白い植生が見られる。」というので、その内容を聞きました。

たまにはRDBの会も瀬戸内地方の低山の歴史や植生を勉強しに行くのもいいなと思っていました。それで、竜野に行くことになりました。「赤とんぼ」の歌詞を創った、三木露風さんの生誕の地です。最近は、彦根などのように、町並みを観光客誘致を意識して、復古調に改造している町も多いようです。ここ「たつの」もごたぶんにもれずか?と思いきや、きれいにしたところと古い町並みが混在しています。そこにまた醤油のにおいが漂っているような感じがします。

鶏籠山に登る前に、土地のお年寄りが私に話しかけてくれました。「そのかっこうは、鶏籠山に登るのか?280m以上もあるで!気を付けて行きや。帰りに…や…に行くといい。鉄砲鍛冶の屋敷もある。そこに見えてるやろ?…」

なんと人なつっこい土地柄。まずは、気候が温暖。播州平野があって、野菜・果物や稲が豊富。そして、水は揖保川がある。なんといいところか。これでは人はいやでもギスギスしない。なんと西田リーダーはこんなのどかなところに生まれ、育ったんだ。

城山に登り始める。けっこうきつい斜面だ。しかし、眼下にたつのの城下町が見えてくる。揖保川が湾曲しながら流れ、その両側に稲が実った田が広がっている。とうとう上まで来た。平らなところで、全員ゆっくりと昼食となった。よかった!実は朝にちょっとしたトラブルがあり、渋滞を決死の覚悟で抜けて尾崎さんとの待ち合わせになんとか間に合った後で、昼食は山では無理かな?と思っていたので、それは感動の昼食となりました。奥野さんから頂いたあの冷たいリンゴの味が忘れられない。ごちそうさま。山が小さかったのと、みんなが予想以上に早く登ってしまったので、リーダーが用意していたおやつを食いそこねたのは残念。

それにしても、最初に見た「かたしぼ竹」は不思議な竹でした。片方だけがしぼりになっている不思議な竹です。他に移植すると普通の竹になってしまうのだそうです。たぶん地質・気候の関係でしょう。天然記念物になっているのが信じられないくらい、うっちゃっておかれている雰囲気です。すると、西田リーダーが、「上のネットを見て。あれはイノシシがタケノコを食べに来るので守っているんです。」

なるほど。イノ公には「天然記念物」とは認識できないからね。淡路から殿様といっしょに引っ越して来たそれらの竹はその遺伝子をけなげに引き継ぎながら、料亭の庭の後ろにひっそりと保存されていました。ある意味で、歴代の城主の入れ替わりの歴史を、鶏籠山登山の途中の説明版で読んだ後で、秀吉の軍勢もここを通過したであろうし、この竹はそのような人間の政争や戦や死や生を見つめ続けてきたのか、と思うと目頭が熱くなりました。

帰りに、リーダーの実家におじゃましました。予期せず「せっかく近くまで来られたのでうちに寄ってください。」と言うか言わないうちに、リーダーの運転で家に着きました。お父さん、お母さんに歓待されました。やさしい愛情たっぷりのご両親のもとでうちの今日のRDBのリーダーは育てられたのですね。縁があって京都に嫁ぎ、縁があって比良山岳会に入り、縁が更にあってRDBの会のリーダーを今日もやってもらっています。女性は実家のある故郷を離れて嫁ぐケースも多く、実家に帰りたいときは一人で帰えらずに、自らリーダーをしてにぎやかに実家に帰るというのもいいですね。私などは数年前に両親を見送ったので、西田さんにはご両親をこれからも大事にしてほしいと願いました。

 さて、山は鶏籠山と的場山。植生はかたしぼ竹。文化探訪は三木露風の歌詞のある記念碑のところで「赤とんぼ」の歌を聞いたこと。

夕焼け小焼けの赤とんぼ

負われて見たのはいつの日か

山の畑の桑の実を

小籠に摘んだはまぼろし

十五でねえやは嫁に行き

お里のたよりも絶え果てた

作詞者の三木露風は、幼い頃に父親の放蕩で両親が離婚。その後祖父母に育てられ、その頃の思い出が、赤とんぼの歌詞になったそうです。三番の「お里のたよりも絶え果てた」とはどういう意味やろね?と奥野さんと話していましたが、気になったので、帰って調べてみました。

通説は、祖父母の家の使用人の「ねえやの実家からの手紙が来なくなった」という意味だそうです。露風が、そのことをあえて歌詞にする理由までは分からないですが、露風がかわいがってもらったねえやの里からの手紙を読み上げるばあやをしてため息をつかせたのをみたのでしょう。お腹の辺りにねえやの背中の暖かみを感じていた時を思い出した露風はその様子をどう感じて言葉にしたのか、興味が湧いてきます。

参加の皆さん、お疲れ様でした。西田さん、いや、旧姓前川さん、RDBの会のリーダーのお役目お疲れ様でした。また、ありがとうございました。

【感想】 36期 辻野喜信

 鶏籠山と的場山は西田さんの故郷の山。色んな思い出が詰まっているようです。鶏籠山頂の城は1600年に麓に移築され、今は城跡の石塁が残っているだけですが、的場山とともに市民に良く歩かれているようでした。

 野見宿禰神社玉垣梅ヶ谷勝次郎や朝汐太郎の名前がありました。昭和52年頃まで大相撲が行なわれていたと言う。由緒ある神社でした。

 私の故郷の山は綿向山(遠くに見えているだけ)ですが、いつもは裏山で遊んでいました。その裏山も今は歩く人がいなく、道も不明瞭になり残念です。

 こうした故郷の山がある人はいいですね。

【感想】 50期  奥野 淳子

その山は、遠い昔、走り回った記憶がある。林の中、虫を追い、穴を掘り、基地を作った。だが、大阪平野の真ん中で育った私は山で遊んだことはない。龍野に来たのも初めてだ。祖母か、その祖父か、そのまた曽祖父が遊んだ山が、東へ東へと鶏籠山へ続いているのだろう。子どもの頃に返ったように、時間がゆっくりと流れた。

【感想】 40期 西田 和美

 ♪千歳の緑鶏籠は確固不抜の精神を~これは私の母校の校歌の一節です。鶏籠山は僅か218mの低山ですが、揖保川の清流と並び、近隣の小、中、高校の校歌に必ず歌われるほど、地元では馴染みの深い山です。

カシ、シイ、カゴノキなど常緑広葉樹が茂り、西播磨地方の自然植生に最も近い形で今日まで残っている森林(原生林)です。中でもカゴノキは、温暖で雨の少ない瀬戸内海沿岸地域にはもともと少ない樹種だったそうですが、近年その数が増えているとのこと。カゴノキの特徴的な幹肌の鹿ノ子模様は、幹の太さが20cmくらいにまで成長しないと現れないそうですが、この模様のない幼樹が自分の名前を隠し、そっと育っているそうです。

 乾ききった登山道にきのこの姿はありませんでしたが、的場山の頂上付近の松林で、枯れた松に発生するヒトクチタケの臭いがしました。きっとすぐ近くに居るに違い有りませんが、先を急いでいたので捜索はあきらめました。

 下山後、以前RDBの例会(雪彦山:セッピコテンナンショウの観察)で宿泊を予定していながら実行できなかった私の実家に、皆さんにご迷惑をかけることは承知で寄ってもらいました。テンナンショウの季節にもう一度計画してもらえればいいなぁ…と思っています。

 それから、本日のもう一つの目玉であるカタシボダケですが、播磨学研都市ができてからイノシシが毎年やって来るようになり、天然記念物のタケノコを食べてしまうため、このまま放置すれば、あと数年でこのタケも絶滅してしまうとか…。この次たつのを訪れたとしても、もう見ることはできないかもしれません。